『34歳のおねしょ』

文章/石野みどり
 月はセンセーショナルな出来事があった。
 34歳にして、おねしょをしてしまったんである。
 おねしょなんて、物心ついてからしたことはあまり記憶にない。
 幼稚園か小学校低学年以来のことだと思う。

 自分でしておきながら、唐突すぎて一瞬何がおこったのかわからなかった。
 真夜中に、突然、布団が冷たくて目が覚めた。
 粗そうというレベルではなく、はっきりとした、おねしょ、である。
 なんだかなあ…。
 寝ぼけた頭で事の重大さとか意味を考えるのはひどく億劫で、その場はノロノロと急場の後始末をして何ごともなかったかのように眠った。
 とにかくその夜は、本当に疲れていたのだ。

 翌朝の天気は快晴で、そのことがわたしの気分を少しだけ軽くした。
 布団を干しながら、お日さまの恵みに感謝した。
 (この年齢で布団に世界地図を書くなんて、シャレにならないでしょう……。)
 実感なんてまるでなく、ただ不思議と、このまま今晩もおねしょをしてしまうかも、といった予期不安もなかった。たとえ今晩もしてしまったとしても、そのときはそのときか……なんてデンと構えていられたのは、心の内側にかひそかに眠る解放感のようなものがあったからなんだろう。
 これはそんなに長くは続かない。
 保証はどこにもなかったけれど、そんな確信がどこかにあった。

 おねしょをした前日の夜、わたしは1泊2日のワークショップに参加していた。人数は20名程度だっただろうか。
 ボディワークやサイコドラマ、インナーチャイルドのワークを通して、自分の心の問題に取り組むことが目的だった。
 参加したのは軽い好奇心からで、横須賀の海がみえる場所で、美味しい魚料理に舌鼓みをうちながら、自分自身について考える時間を持つ……ということに、純粋に興味を覚えたのだ。
 そのときわたしは大勢の人の前にたつと声がうわずってあがってしまう、というよくありがちな現実に対して、なんとかならないものかと思案をしていた時期だった。
 深刻な悩みというほどのものでもないけれど、なんだか気になる。その程度だった。
 それに、インナーチャイルド−自分の内なる子どもの声に耳を傾ける、とはどういうものなのか、体験を通してしか学べないこともあると思ったのだ。

 1泊2日のスケジュールは盛りだくさんだった。
 まずは目の前の広大な海を見ながら、自分が好きな海の生物を体を使って表現したり、海の生き物になってみたことでどんな気分になったのかを、身を持って体験した。そして、次に嫌いな生物になってみる。そして、2つの気分を比べてみる。
 貝になって殻のなかにはいってしまう人もいれば、トビウオになって海に飛び出たいのだ、という人もいた。ワカメのようにただ海のなかを漂っていたい、という人もいれば、サメになってすべての魚を飲み込んでしまいたい、という人もいた。
 きっと、それらは、たった今のその人の心象風景を表しているのだろう。

 そしてわたしはと言えば、10日前にhideさんの命日で横須賀の海に来たばかりだったので、そんな思いからか海をみても、海そのものを包みたい、あるいは包まれたい 感覚にとらわれて生き物そのものにはなりきれなかった。10日前に誓った思いなどがあふれてきて、タコやイカやサンマになってる場合じゃなかった。
 あえていえば、何かとつながりたい、という気分でいっぱいだった。
 なにかって何だ? 必死で、その、なにか、を探したのだけれど、そのときはなにも見つからずにワークは次々と進んでいった。

 進むにつれ、少しずつ精神的にヘヴィになってきた。
 ア、イタタタタ……ならまだいいが、グサリとえぐられるような心の痛みもある。

 自分のなかにある複数の人格を紙に記していくと、それはやがて幼少期にどのように過ごしてきたのかや、両親との関係性にいきあたった。それは苦しくもあり、頭では認めたくない感覚というものも沸き上がってきた。
 それは例えば両親や周りの人に対して上手に甘えられない自分の傾向性だったり、小学校の頃に複数の人から激しくいじめられた体験もあった。

 わたしの場合、複数の人の前で緊張して話せなくなるのは、その頃のトラウマが大きいのだという感覚にぶつかった。複数の人間から毎日、毎日いじめられていると、やがて心は自分を守るために違う感覚を生み出す。
 体格のいい子どもに理不尽にいじめられ、やめてほしい、と戦う勇気のなかったわたしは、抵抗せずにその言葉を飲み込んだ。
 やがてその感情は怒りとして吐き出されることなく、別の感情として処理されていったこともあり、大人になった今でも複数の人間の前に出ると、またいじめられるのでは? という微妙な緊張感から声が震えるという行為におよんでいたのだった。

 こんな話はいくらでもある。人はあまりにも恐怖の感覚にさらされると、一時的に感情を麻痺させて自分を防衛するのだということを、リアルに思い出した。
 こうしてひとつひとつの感覚をていねいに紐解いていくうちに、わたしは少しずつ自分のなかに押さえつけてきた感情を掘り起こし、新たな自分が蘇生されていくのを体感した。
 有意義で濃密な、とても不思議な体験だった。

 自宅に戻り馴染みの布団に潜ったときは、なんの言葉も見つからないほどにグッタリしていた。そして、珍事のおねしょ、となる。

 翌日、心から信頼している友達と銀座でお茶をしながら、ためらいつつも話をした。話をすることで、自分のなかに変化がおこるか試してみたかったのだ。頭のなかや心のなかにあるモヤモヤも、話をすることで言語化すると意外な発見につながることもあるのである。

 話をして、自分がもっと動揺するかと思ったが、意外に冷静なのにはおどろいた。
 そして、さらにおどろいたのは、彼女が「実は私も……」と話してくれたことだった。彼女は20代の頃に一度、離婚をしていて、精神的にとてもヘヴィだった時期があったのだそうだ。離婚を決めるまでには相当の葛藤があっただろうし、精神的なストレスも大きかったのだろうと思う。
 しかし、離婚を決意し、相手ときちんと話しあい、細かい手続きを終え、新居を出て、母親のいる実家に帰った。
 そして、その日の夜に、おねしょをしたのだという。

 「びっくりしたというより、私、おねしょしちゃったーってむしろすがすがしい気分だったよ。すべてのことに区切りをつけた、解放感っていうのかなあ。あのときはなんか楽しいというか、笑っちゃったよ」

 その言葉を聞いてわたしははっとした。そうか、あまりにも意外でびっくりしたけれど、これからも続いたらどうしよう、という不安はないのは、むしろ抑圧してきた感情を素直に表現できた、解放感なのかもしれない、と。

 人は一時的に強烈なストレスを感じたとき、そのストレスが大きければ大きいほど、解放されたときの喜びも、普段には見られない身体症状として表れるのだ。

 これはまったくの個人的な出来事で、誰かの参考となるものではないだろう。
 けれど、ひょっとして珍事がおきたとしたら、おもしろがって受け入れることから始めてみるのも悪くない。今はそんなふうに思っている。
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