『「やりたいこと」と「あるべき姿」』

文章/石野みどり
 週約1年ぶりに実家に帰ると、いつになく母が真顔でわたしにこう言った。

「東京はテロで攻撃されてしまうかもしれないから、今のうちにこっちに帰ってきなさい。心配なんだよ」

 この言葉にはさすがにギョっとして考え込んでしまった。
 東京に住んで約13年。今までいちども「帰ってこい」と言われたことがなかっただけに、さすがに母も老いたのかとか、いや、そういう問題ではなく本当に東京は(日本は)非常事態なのだということをわたしが深く明確に捉えていなかったのか、と身に詰まされた。
 それほど彼女の表情は真剣だった。

 連日、イラクやトルコ、世界各地で過熱化していくテロの報道は、わたしの中に複雑な傷跡を残している。もちろん、これはわたし固有のものではなく、誰もが今、共有して抱えている痛みであり、もはや個人の力だけではどうすることもできない無力感のような感情も内包している。誰もが等しく自我を超えた、ユングでいうならば集合的無意識のような大きな時代のうねりの中に漂っているのだと思う。
 わたし個人には打つ手はない。なす術もわからない。ただできることと言えば、変わらずにこの怒りのエネルギーが静まるのを、そっと祈るしかない。

「アルカイダが東京を襲う」という宣言をわたしは突飛なものではなく、とうとう来たんだ、という思いで受け止めた。
 テロが心配で眠れないというならば、それよりもわたしには明日の原稿の締め切りをクリアすることのほうが必死であるように思えた。

 東京に残る理由をうまく母に説明できないまま、わたしはいつもの生活に戻った。
 彼女の言葉はずっと心の内側にひっかかったままだ。
 以来、テレビの健康番組で「毛穴の汚れを防いで若返り!」特集をチラチラ見ても、動物番組でカメのぬいぐるみをつけてタレントが踊っているのを見ても、何も心が動かない。

 ようやく心の底からすごい、と感動したのは、南極の皆既日食の生中継だろうか。太陽の偉大なエネルギーや、ダイヤモンドリングの神秘的な輝き、真っ黒い太陽の周りを包む白い光に、地球のちっぽけな存在を実感した。
 大きくて長い宇宙の時間軸をあてはめて考えても、わたしが今いる地球という場所は、それよりもはるかに小さな存在なのだということを思い知らされた。

 先日、ある出版プロデューサーの友人がわたしにこんな質問を投げかけてくれた。
「石野さんが本当にやりたいことって何ですか? 人生一度切りだよ。」
 その頃、仕事の幅を広げようといろいろな試みをしていたわたしにとって、グサリと響いた痛い質問だった。
 また、近しい人を亡くしたばかりで動揺していたときに、わたしが所属するカウンセリング協会の理事長からはこんな言葉を投げかけてくれた。
 「持ち前の感性と感覚を活かして、あるべき姿に向かって進んでください」−と。
 これも、なんだか痛かった。

 痛い言葉というのは、自分なりの答えを見つけない限り、絶えず心のどこかに居続けるものである。
「本当にやりたいこと」と「(自分がめざす)あるべき姿」−−−。
 この二つの言葉をいつも考え続けていたときに、田舎の母に説明できないままの、東京に残る理由が心の中にふっと浮かんだ。

   わたしにはまだ東京でやり残している、これから絶対に「やるはず」のものが確かにある−−。

 そんな確信に近い強い思いが自分の内側から沸き上がるのを感じると、テロの恐怖に怯えている時間がもったいないと思えるようになるのが不思議だ。アルカイダという得体の知れない、目に見えない不安より、自分の中にある確かな思いを信じる力のほうがはるかに強い。

 「やりたいこと」と「あるべき姿」。その先には必ず自分が「やるはず」のものがある。それさえ見つけることができたなら、きっと理不尽なテロとの戦いにも負けないくらいの力が自分の内側に宿っていることに気づくはずだ。
 あとはそれを見失わないように、大切に育てていけばいい。

 ある意味、覚悟をもってわたしは田舎に帰らない−−と母に告げると、「心配するのに飽きたから帰ってこなくていいよ」と言ってくれた。ぶっきらぼうだが、それは彼女なりの愛情表現なのだと思っている。
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