I'M HERE home

Fish In The Gas 松慎一郎

 

 炎天下に曝されて発熱した風景が、風に揺らぐ。
僕の部屋から見える建築中のビルの、焼死体のような錆びた鉄骨には
黄ばんだ風が絡み付き、重たくたなびいている。
今日も僕は下着やシャツが脱ぎ散らされ、読みかけの雑誌が散乱したこの部屋の、
硬い床の上で目覚めた。
醒めきれない夢の重さに腰を落とし、屑籠に押し込んだカレンダーの数字を数えていると自動車工場のサイレンが唸りを上げ、目覚ましが鳴る。
軽い頭痛の中、目覚ましを止め、起き抜けの身体を力一杯伸ばすと、全身の関節がくぐもった音を立て、射精にも似たはかない快感が、スローモーション映像の花火のように
静かに拡散して消えてゆくのを感じた。
大して吸いたくもないのに、必死になって埋もれた灰皿に長い吸い殻を探して、火を点ける。ぼやけた頭に軽い眩暈と共にニコチンがまわって、僕は薄いピンク色をした脳に、インクを落としたようにニコチンがしみこんでゆくのを想像した。
 こみ上げる吐き気を堪えながら煙草を灰皿に押し潰し、毎朝使うには少し傾斜のきつい坂の上を、煤けた窓から眺める。立ち上る陽炎の中、昨日までの生活の跡をずっしりと引き摺りながら、黙々と駅に向かう人々。目覚める朝はいつも同じだ。

 とにかく、と胸の内で呟き、今日も一日が始まるんだと、僕は肺に溜め込んだ煙草の煙を溜息混じりに吐くと、レコード棚に向かう。
特別な事がない限り、一日の内で最も僕が緊張する瞬間。
選んだレコードによって、これから始まる一日をどうやり過ごせるかが決まる。うっかり選択をミスすると酷い気分で一日を過ごす事になる。 僕はしばらく考えて『ベスト・オブ・マディー・ウォーターズ』を繊細なビニールから取り出し、神経質に針を落とした。
ラジカセの小さなスピーカーからバチバチッと音が弾け、黒人男性が野太い声でブルースを歌い始めると、僕の部屋にドロリと溜まっていた重たい空気が掻き回され始めた。




 青空の歩行者天国。ヒップホップ・ダンサー。タイ料理の屋台。ガラス張りのペットショップ。買い物袋で両手を塞がれた、揃いのシャツの四人家族が、ガラスケースの中で居眠りしている子犬にガラスをコツコツ叩いて微笑みかけている。サーフポップが流れるラジカセ片手に、カリフォルニアスタイルの白人の男女が手を繋いでローラースケートで人混みを軽快に擦り抜けて行く。人波を軽快なサーフポップが流れてゆく。レストランの店先に誇らしげにフランス国旗が掲げられた通 りの青空へ、白人の女が投げたオレンジ色のフリスビーが吸い込まれてゆく。
 八十七年六月最後の週末、僕は重たく巻き上げられる熱風の中を歩いていた。この日は記録的な猛暑で、家電量 販店の店頭に並んだ最新型のテレビから、仕事を求めて密入国しようとしていたヴェトナム人たちの腐乱死体を乗せたボートが長崎に漂着したニュースが流れていた。

 アキラたちと待ち合わせている『150円コーヒーの店』に入ると、一番奥のテーブルでタナカが、こっちだと手を上げ、ストローを噛みながら鉢植えのシダをむしっていたアキラが僕に手を振る。
「…ひっでえんだよ、文化祭の打ち上げでベロベロに酔ったうちのクラスのユカを連れ込みやがってよぉ、キャンプの時に続いて…」とマサヒロが、僕が来る前にしていた話の続きをしている。
マサヒロはうだるような真夏日に、自慢の革ジャケットを着て、赤い長髪をべったりとヨーロピアンスタイルのオールバックにしている。

 僕達は東京の外れにある私立高校に通う高校生で、当時流行っていた『反抗がファッション』のパンクバンドが大嫌いだった。出番の二時間前から髪を立てる事に忙しい、可愛らしいロックバンドの中、ブルースを直情的にシャウトする事で僕達は名前が売れていき、最初は学校の友達とその友人が数人…といった感じが、友達の友達が友達を呼んで…という具合に次第に二百人位のキャパシティーのライブハウスがいっぱいになって、米軍基地周辺と東京のアマチュアバンドの中では、ちょっとした顔だったんだ。
自分たちは音楽雑誌なんかに出ている、サクセス・ストーリーを生きていると思っていたんだな。

 人気者ではないが、男友達と教師には信頼が厚い学級委員、花岡が崩れ落ちそうな吸い殻の山からもうもうと上がっている煙に、顔を歪めている。
「さっさと消せよ」と花岡がユウジの煙草を指差すと、ユウジは細い首をうなだれて、「あぁ…ごめん」と人指し指を引っ掛けて灰皿をずるずると引き寄せ、煙草をもみ消す。真っ青な表情でうつむき、黙りこくったユウジに、マサヒロは飲んでいたビールを慌てて置いてアキラを指差し、急に思い出したように話し始める。
「そう言えばよぉ、この前コイツ、クラブで派手な女の手相見て、『最近、疲れ溜まってない? 墓参り行ってないでしょ?』とか言い出してさぁ、霊視に行くとか言ってうまく部屋にあがり込みやがって」
「芸能人をとっかえひっかえ犯りまくってクラブの顔になった女の部屋に仏壇なんかある訳ねえだろ」と僕がアキラの首を締めると、ユウジは斜視気味の眼の下に出来た青黒い隅を歪め、微笑んだ。
 賑やかな休日の表通りでは、日溜の中を子供達がたどたどしくサッカーボールを蹴りながら走り回っている。結婚相談所の前でそんな子供達に眼を細める、風俗店の看板を持った中東の人。看板には『出会いの広場』と書かれている。『150円コーヒーの店』から街の午後を独り、見ていた僕は空いたビールの缶に短くなった煙草を落とした。

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