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黄金の昼下がり -The Golden Afternoon- 木椙ルル


  最終回

TOWERBRIDGE  タワーブリッジまで辿り着いた僕は、他の観光客と共にノンビリと対岸まで渡り、そのすぐ下の細い路地を抜けてセント・キャサリンズドックへ入っていた。ごく一般的なものから、実際に使っているのか定かでないぐらい装飾が豪華なものまで様々なボートが停泊し、周囲にはいくつかのショップが並んでいる、静かでこじんまりとしたドックだ。
 その一番奥に位置する大きなパブへ向かう。ガイドブックでもよく紹介されている、観光客でも入りやすい有名な店だ。フードメニューも充実しているので普段ならかなり混雑するのだが、時間のせいだろうか、またそんなに賑わってはいない。僕はバーカウンターの方でお気に入りの銘柄のビターを1パイント受け取り、グリーンが飾られたテラス席へ出てみる。ドック全体がよく見渡せる特等席だ。

 珍しく太陽の光を浴びながら、ここはなんて素晴らしい場所なのだろうと、改めて心の底から感じていた。どうして僕たちがこの街にこれほど惹かれ続けているのか、最初のキッカケは何だったのか。今となってはハッキリとは分からないけれど、もうそんなこともどうでもいいような気がしてくる。そう、理由なんて分からない。ただ自分の肌がこの街を恋しいと言い、この街に帰ろうと喚き、心が泣き出してしまうのだ。
 こうしてこの地に立っている今は実感はないけれど、実際は東京から直行便で12時間も遠く離れている。いや、ここは僕たちにとってたった12時間のフライトで来ることができる、こうして来ることのできる実在する楽園なのだ。
 大切なのは、ここが僕たちにとって、そんな心から大事な場所であるということであって、これからもそれが続いていかなければならないということ。
 僕はバックパックの中から小さな箱を引っ張り出し、中からバラの指輪を取り出した。それを左手の指にはめながら、バッグパックの中に残った景の形見をしばらく見つめていたけれど、僕がそれを取り出すことはなかった。

DOC  僕はもう少し、ビターをもう1パイントとタバコを3本分だけの時間を自分に与えた。色んな種類の涙があふれそうになるのを必死でこらえていた。ここで一端泣き出してしまったら、きっとどうしようもない号泣になってしまうだろうと思ったから。結局は少しだけ我慢しきれなかったが、それは今までと同じような理由で泣いているのではないことを、自分で自分に確認した。もちろんそれは、本当の気持ちだった。

 セント・キャサリンズドックを出て、賑わうロンドン塔をゆっくりと歩いた。観光客たちは見学ツアーに参加するために長蛇の列を作ったり、ビーフィーターと並んで写真を撮って楽しんでいる。僕はすぐ前のタワー・ヒル駅からTUBEに乗った。ディストリクト線で一気にサウス・ケンジントン駅まで移動する。

 駅前の閑静なエリアを抜けて立派なロイヤル・アルバートホールを越えると、目の前にやたら大きなアルバート記念碑が見えてくる。するともうそこは、ケンジントン・ガーデンだ。
 ここはハイドパークと繋がっている広大な公園で、僕はいつも滞在期間のうち何回かは必ず訪れる。そのへんにウロチョロしているリスと遊んだり、シートなんて敷かず、芝生の上にじかに座って近所のデリやスーパーで調達してきたランチを広げたり、寝ころんでは微睡みながら空を眺めるのが好きなのだ。それはどんなに高級なホテルに泊まるより、レストランへ行くより、高い買い物をするより、僕にとっては一番の贅沢な時間の過し方だ。
 眩しいぐらいのその緑色の中を、かつてダイアナさんが住んでいた宮殿の方へ歩いて行く。本当に視界が緑と空の青しかないぐらいだ。空気もきれいで淀みがない。ここが都会のど真ん中であることを皆がしばし忘れるに違いなかった。
 しばらく歩いて行くとその先に、空ではないもう一つの青が見えてくる。それは不思議なぐらいに濃いブルーが鮮やかなラウンド・ポンドという小さな池で、白鳥をはじめ様々な水鳥たちが羽根を休めていた。
ROUNDPOND

 鳥たちの他には誰もいない、静かな午後。穏やかな太陽の光を受けてキラキラと輝くその水面を見つめていると、気持ちがどんどん静かになっていくのを感じることができた。

 しゃがんで手を伸ばしてみると、思ったよりも冷たい水が気持ちいい。すると、エサをくれるのかと勘違いしたらしく、愛想のある黒い顔をした小さな鳥が何羽か寄ってきてしまった。
「ゴメンねー。悪いけど、今何も持ってないんだよー」
 鳥たちはヨチヨチと集ってくるばかりだ。
「あー、どっかでパンか何か買ってきてあげればよかったねー」
 すっかり取り囲まれてしまった僕は、なんだか申し訳ない気分でいっぱいだ。
「それって鳥語?」
 その時、そんな声が頭の上から聞こえて僕は振り返った。ジーンズのポケットに手を突っ込んで、笑いながらそこに立っていたのはゾーイだった。
「日本語」
「てっきりザジはコイツらと話が出来るのかと思ったよ」
 僕は笑い返しながら立ち上がる。
「そろそろ来る頃かなって思って。でも結局、2時間も待っちゃったよ。行こうか」
「うん。あ、ゴメンね、誰か他の人当たって!」
「鳥語?」
「だから、日本語!」

 それから僕たちは、さらに宮殿の方へと、何も喋らず並んで静かに歩いていった。
 ゾーイが今、自分の隣にいてくれることを不思議には感じない。かといって来てくれることを期待していたワケでもない。ただ感謝の気持ちしかないが、その静かな時間が心地良く、僕はそれを口に出来なかった。

 宮殿の近くには、サンクン・ガーデンと呼ばれる小さな庭園がある。本当に狭い敷地だが、整えられたトピアリー、泉、そして整然と植えられた花たちが咲き乱れている可愛らしい庭だ。
 日本語では“沈床園”とも呼ばれるもので、鑑賞する外側からは一段低い位置に作られているのが特徴になっている。ここでは周囲にいくつか作られた“隙間”から鑑賞するようになっていて、まるで小さい頃に夢中になったアリスの物語の、サー・ジョン・テニエルの挿絵の中に入ってしまったような感覚にさせてくれる。いまにも白ウサギが慌てて走ってきたり、いかれ帽子屋が三月うさぎと一緒に眠りねずみをティーポットに沈めたりしていそうなのだ。
 そしてここは、この街の中でもミエルが一番にお気に入っていた場所であり、彼が最後の日に独りで一日を過ごした場所でもあった。
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